自分一人の力は計り知れないほど大きい
アドラー
わたしが変われば世界が変わる
わたし以外の誰も世界を変えられない
大切なことは「いまここ」が強烈に輝いているか
この歳になって、ようやく読書ができるようになってきた私(40代後半)
でも読むのがなかなか進まない時ってありませんか?
いまさらですが、そんなときは「Audible」がオススメ!
- 月額1500円
- ポッドキャスト聴き放題
- 毎月ボーナスタイトルひとつ無料
こんな感じで、通勤されている方などには最適かと。
その中から、これまたいまさらですが「嫌われる勇気」を読んで、、いや、聴いてみました。
この本、じつは以前買っていたのですが、
なぜかあまり気分が乗らずに、斜め読みしただけでフリマサイトで売ってしまっていました。。。
先日、ふと
オーディブルのサイトを見ていたら、このタイトルを久しぶりに見かけましたので、ポチッとしてみました
・目で見るよりも耳から聴いた方が頭に入る方
・通勤や通学の時間を有効に使いたい
・良いBGMを探していた
・寝る前のリスニングとして
Audible はオススメですよー
ここからは嫌われる勇気の内容を自分用にメモしておきますので
ネタバレを嫌がる方はご注意くださいませ♪
(めちゃくちゃ長編になったのでお時間のある時にでもどうぞ)
「本当の自由」とは「他者から嫌われること」
人生とは何でしょうね、、、
楽しみ
苦労
危険
ひとことではとても言えませんが、悩みのすべては「人間関係の悩みである」と筆者は言い切っています。(確かに!)
そして、何か困難にぶつかるたびに
あぁ、、、自由になりたい...
などと思うわけです
煩わしい人間関係、時間ばかり奪われるタスク、やらなければならない業務、、、など
しかし、そもそも「本当の自由」とは?いったいなんでしょう?
本当の自由とは「欲望衝動の奴隷」ではなく、本能や衝動に抗うこと
アドラー
悩みの全てが人間関係の悩みとするならば、対人関係の自由こそが本当に自由
ということである、と
つまり「他者から嫌われていること」こそが自由であり
嫌われているということは「自由に生きている証」なのだ、と
つまり
すべての人から嫌われないように生きること
というのは”不自由極まりない”こと
権力争いに持ち込まない
とはいえ、生きている以上、反対されることや嫌ってくる人、顔も見たくない人がいるのは仕方ない、、、
と思いがちだが、まず必要なことは「権力争いに持ち込まないこと」が大事なのだそう
具体的には
- 誤りを素直に認める
- 謝罪する
- 権力争いから降りる
つまり、勝ち負けの戦いから降りて、競争しないと決めること
人生は競争ではない
ということを理解すること
承認欲求は必要ではない
わたしたちは、すくなくとも学校教育で「賞罰教育」を受けてきました
テストで成績を比べられ
背の高さや足の速さで順位をつけられ
モテるやつとモテない自分の差で凹む(これは自分に問題が、、、)
基本にしなくてはいけないのは
「他者の欲求を満たす」ことではなく「自分自身の欲求のみを満たし、自分の人生を生きること」である
そうでないと、気づかないうちに
親や先生、友達の欲求を満たすようになり
その目を気にして生きていくことになってしまう
それは「他人の希望をなぞらえて生きる」ことであり、つまりは「他人の人生を生きている」ことである
課題を分ける
たとえば「こどもが勉強をしない」というとき
これはそもそも誰の課題でしょうか?
勉強をしない
というのは本来(というかそもそも)親ではなくこども本人の課題のはず
しかし
勉強しないと将来あなたが困るからっ!!!
などと、
こどもの課題に親が土足で入り込んでいる人が多い
ここで大事なことは
自分のこどもと言えども「他人」
ということ
親の見栄のために、こどもに勉強させていないだろうか
「こどものために」と、
自分の問題と相手の問題をすり替えていないだろうか
残念ながら、こどもは親の思う通りには動かないし
親の満足度を満たすために存在しているわけでもない...
ここで重要なことは
「放任主義」を推奨するわけではなく
困った時にはいつでも援助をすることを常に伝え
その判断を相手(こども)にまかせる
どう動くかは相手にまかせる
ということ
これは勉強しないこどもだけでなく、「ひきこもり」もまったく同じ
放任するのではなく、困った時にはいつでも援助する用意があることを
常に伝えているかが重要である
本当の自由とは組織からの解放ではない
冒頭にもあったように
「すべてのひとに嫌われないように生きる」
ということは不自由であり
そもそも不可能であるといえるだろう
しかし
自由とは組織からの解放ではなく、
たとえ組織から飛び出したとしても承認されないかもしれない
という意識を手放さない限りは本当の自由ではない、と
居直るのではなく
・相手との課題を分離して
・相手の課題に土足で踏み込まない
・相手の人生を生きようとしない
坂道を転がって生きるのではなく、時には登っていくことこそ
本当の自由なのではないか
対人関係のカードを切るのはあなた
たとえば父親との関係が悪いという時
その昔、殴られ家を飛び出したが、また自宅へ引き戻された
この場合
「殴られたから関係性が悪くなった」
というのはフロイト的な原因論的考え
しかし本当は
父親との関係を良くしたくない(悪くしておきたい)から、殴られた過去のことをわざわざ思い出している
なのでは?
人生は「自分がどう決心するか」
誰に対してでも対人関係のカードは常に自分が握っている
だから
あのひとはわたしのこと、一体どう思っているんだろう?
なとど考えてもどうにもならない
他者の気持ちを操作しようとすることほど
無駄なことはないので
相手が何を思おうと
どう言う行動をしようと
それは「自分の問題ではない」し、
相手が変わることが目的でもないのである
他人を操作できないし
操作しようとしてはいけないのである
承認欲求に縛られた人生を送っていると、いつまでも「人生の課題は相手にある!」と思ってしまう
アドラー
対人関係のゴールは「共同体感覚」
共同体感覚とは
他者を敵か味方か判断するのではなく
「他者を仲間としてそこに自分の居場所がある」と思うこと
ここでいう共同体とは
家族や学校、職場や地域社会だけにとどまらず
国家や人類、動植物から宇宙まで!!
アドラー本人も到達できない理想であると言っている
共同体感覚を感じる第一歩は「社会への関心」である
そしてその社会の「最小単位」こそ
「わたしとあなた」
つまり、二人いればすでにそこには「社会」が成り立っているのである!
「自己中心的に生きる」とは
自己中心的とは「集団の輪を乱し、単独行動を好み、自分勝手」
というのが一般的だが
「課題の分離ができておらずに承認欲求に囚われているひと」もまた
自己中心的な生き方である
「相手がどれだけ自分の欲求を満たしてくれるか」
としか考えていないのは
「わたし」にしか興味がないからである
「他者からどうみられているか」ということばかり考えているひとは
他者に関心があると思わせて、じつは
「自分にしか興味がなく、自分のことしか考えていない」
という場合が多い
あなたは世界の中心ではない
あなたは「世界の中心」ではなく
「あなたの人生の中心」であり
しかしそれは、共同体の一部であり
全体のなかの一部でしかない
よって
「このひとはわたしの人生に何を与えてくれるか」
「わたしのために周りが動くべき」
と考えるのは違う
こう考えてしまうと
あのひとはわたしに何もしてくれない!!ムキーーーーっ!!!!
あのひともこのひともみんな敵だ!!!んもーーーーーっ!!!
となってしまう...
人生のタスクとは
我々に足りないもの
それはズバリ「しあわせになる勇気」である
しかし
それを放棄して人生のタスクから逃げてはいないか
人生のタスクとは二つ
①行動面:自立して社会と調和して生きる
②心理面:自分には能力があるという意識を持ち、周りの人々は仲間であるという意識
この二点を達成することで
人生のタスクを達成することができる
そのための第一歩として
自分の人生にコミットメント(宣言)すること!
誰かから何かをもらうのを待っているのでなく
自分の足で立ち
自分の人生のタスクに自ら立ち向かうことに向き合い
相手に何を与えられるかをまず考えること
人間関係で困った時は
困った時はより大きい共同体の声を聞くこと
我々は皆どこかの共同体に所属している
完全に孤立はできない
そしてそれは必ずしも目に見えるものだけではないが
「無限大」のつながりがある
(宇宙や生物すべてというと難しいので)
ひとつの共同体で何かしらのトラブルがあったとしたら
意を唱えても良いし
それでもダメなら
そこを飛び出して
より大きなところへ行けば良い
いまいるところだけがすべてではない!
自由を選ぶことはいつだってできる!
褒めてはいけない!?
褒める
と言う行為は「上から目線」である
能力のある人がない人に対してすること
褒める母親
というのは自分のこどもを下に見ている
「誰かに褒められたい」のが人間だ!
というのは「人間関係を縦に捉えている」から
そうではなく
人間関係とは「横の関係」であり「対等」である!(「同じ」ではない!)
たとえば
会社員の夫と、専業主婦の妻は
同じではなく
上下関係でもない
横の関係で対等である
上下関係を常に考える人は「強烈な劣等感」が背景にあるのでは
あなたの日常は
縦の人間関係から抜け出せているか
「勇気づけ」というアプローチ
わたしはだれかの役に立っている!
と思えた時だけ、人は生きる勇気が湧いてくる!
そして
上下の関係ではなく、横の繋がりの関係で行う援助のことも
勇気づけ
と定義している
それは「褒める」ではない
ひとは褒められると、自分には能力がなく、相手の方が能力があるという信念を無意識に形成してしまう
それはつまり「縦の関係」に従属しているのではないか
いつのまにか褒めてもらうことが目的になり
褒めてもらうことが目的になってしまうと
他者(褒めてくれる人)の価値観に依存する生き方になってしまう
ひとはお互いに違う存在である、大事なのは縦ではなく横の関係
ではどうすれば?
感謝・尊敬・喜び
の言葉が出てくるはず
ありがとう:純粋な感謝の言葉
相手が「自分は貢献できた!」と感じることができる
貢献できたと感じるこそができれば、「自分には価値がある」と思える
そして、ありのままの自分を受け入れることができ
自分自身の人生のタスクに立ち向かうことができる
ひとは
「自分は共同体にとって有益な存在なのだ」
と他者からの評価でなく、自ら思えた瞬間に
自分の能力を最大に発揮することができるのである!
存在だけで価値がある!
こういう話をすると
えっ?じゃあ、他者に対して役に立ってない人って、価値がないってこと?
たとえば認知症の親とか、障がいを持ったこどもとか、、、
というひとが必ず現れますが
もちろんそうではない
そもそも「価値がない」とは、
その人のことを「行為」のレベルでしか見ていないのでは?
そうではなく「存在」のレベルでみるとどうなるか
存在しているだけで、誰かの役におおいに立っているのである
もし近しい人が交通事故にあったとき、
生きているだけでありがたい、嬉しいと思うはず!
同じように自分がそういう状況になれば
周りの人にとっても存在しているだけでありがとうと言われるのでは
行為ではなく存在の時点で感謝ができるかどうか
たとえ引きこもりのこどもだとしても
洗い物を手伝ってくれたら「ありがとう!」と感謝を伝えるべきである
われわれは「自分にとっての勝手な理想像」をつくり
勝手にそこから引き算をして考えてしまう
そういう「評価する」発想は捨てよう!
「自分なんて価値はない」と考えてしまう人の思考
「じゃあなんでそう思うのか?説明して」
と聞いてみよう
そういうひとは無意識に「縦のつながり」を築いていないか
縦のつながり・横のつながり
というのはどちらかでしかつながれない
人間は自らのライフスタイルはそう簡単に変えられない
友人でも知人でも、
無意識に縦の繋がりを求めてしまう人はずっとそうしていく
じゃあ、会社の上司にも横のつながりをしろってこと?
と思った人
職責があるため、そう簡単に横につながることはできないまでも
横からの「意識」で繋がることはできるはず
そもそも「目上」って何?「立場を考える」って何だろう??
たとえば
上司からの指示に従った結果、失敗してしまった時
上司が責任を取る取らない
というはなしではなく
「そもそもその指示を断る余地があった自分が”上司の指示なので断れない”と勝手に逃げていた自分の責任」
も少なからずあるのでは?
こういう話はよくあるが、これって本当に「断れない」のだろうか?
①自己肯定のまえに大事な「自己受容」
相手によって何が与えられたかを考える前に
自分が与えられたものをどう使うのか
そのことが先である
「何でも前向き」ではなく
「すべてを肯定」でもなく
できていなくてもできるように前に進むこと、そのために
60点の自分に「60点でOK!」と思える「自己受容」がまず第一
よく混同される「自己肯定」とは、
自らにウソをつくこと、60点の自分に「本当は100点!」と無理矢理思うこと
そもそも100点の人間など一人もいない
「変えられるもの」と「変えられないもの」をきちんと分けて考えること
与えられたものと変えられるものだけに注目すること
変えられないものはそのまま受け入れて
変えられるものをいかに変えていく勇気を持つか
我々に足りていないのは「能力ではなく勇気」である!
②他者を信頼すること
信用ではなく信頼
信用→条件付きのもの、銀行などの信用、クレジット
信頼→無条件、信じ続ける態度のこと
そんなこと言ってたら騙されて利用されるだけでは?
確かにそれもある
しかし、それでも無条件に信頼してくれるひとがいると思えたら良いのでは
そのまえに「裏切られることもあるのでは?」と思うのは
相手のことを勝手に自分で決めつけてはいないか
自分は自分
相手は相手
課題を分離せよ!
とはいえ
いつ何時も無条件に誰でも信頼せよ
ではなく、ときには断ち切ることも必要である
彼が浮気しているかも、、、それでも信頼しろっていうの?
信頼の目的はどこにあるか?
たとえば疑って探偵を雇ったり、その証拠を集めようとした結果
山のように浮気の証拠が集まるかもしれない
というより、疑いの目を持った時点で、なにをしてもその証拠になる!
それは
「相手の浮気」ということの前に
「いま裏切られたことだけ」「いま受けている自分の傷のことだけ」
それにしか意識がないのでは?
裏切られたことの恐怖を乗り越えるのは「自己受容」
もしも万が一
本当に裏切られて悲しい時には思い切り悲しめば良い
だから
我々には、疑うことも信頼することもどちらでもできる
わたしはどちらを選ぶか?
そこが最も大事では?
③他者に貢献する
自己を犠牲にする
ということではなく
他者に対して貢献しようとすることが「他者貢献」
自分の行動が共同体にとって有益だと思えた時
はじめて「貢献した」と思える
最もわかりやすい他者貢献こそ「労働」
お金を稼ぐことだけではない
巨万の富を得た人がそれでもなお働いているのは
他者に貢献するため
働くことで「ここにいてもいいんだ」と自らの存在価値を確認している
一部だけで全体を判断していないか
世の中は善人ばかりでも悪人ばかりでもない
直接攻撃してくる人だけが問題であり
人類すべて問題があるわけでもない
「みんな間違っている」「すべてがおかしい」
などと全体を判断してしまう発言をしてはいないか
世の中には
- 10%:なにをしても嫌ってくる人
- 20%:なにをしても好きでいてくれる人
- 70%:そのどちらでもない人
がいる
たとえば”吃音症”のひとは
「自分の話し方だけ」おかしいと
意識を向け過ぎていないか
そんなことを気にしている人は全体のたった10%!!
それなのに
「みんなぼくを笑っている」
と思っていないか
本当は
これまでの3点
- 自己受容
- 他者信頼
- 他者貢献
ができていないことの方が
よっぽど問題のはず
ワーカホリックのウソ
人生の特定の部分にだけ注目していないか
ワーカホリックも
仕事が忙しいから、、、
と家庭を顧みないのではなく
本当は趣味や交友関係にも注目すべきなのに
ただ仕事を忙しくしていることで
本質から目を背けるだけの言い訳にしているのでは?
仕事一筋
ではなく、それは人生の調和を欠いた生き方にすぎない
仕事という「行為」でしか
価値を判断していないと
定年や怪我の際に深刻なダメージを受けることになるだろう...
普通であることの勇気
誰一人として悪を欲する人などいない
ソクラテス
なぜに人は「特別であること」を求めるのか
- 勉強やスポーツに過剰に肩入れする
- 授業を妨害する
良いことも悪いことも注目を集めようとする
普通である自分を受け入れられないので、
過剰に没入したり悪いことをしてしまう
自己受容とは「普通であることの勇気」への第一歩
普通とは「無能」では決してない!
そして自らの優位性を目指したりアピールする必要もない
人生に高い目標など必要でないのかもしれない
人生は線ではない
登山のように目の前を一歩一歩進むしかない
小さな点の連続であり、連続する刹那である
いまここ
その積み重ねの上にしか人生は存在しない
我々大人がそれを知っていないと
若い人たちに「人生は線だ」と求めてしまう
そうではなく
いまこの瞬間を
ダンスするように生きるか
それとも
効率をもとめて何もしないか、、、
わたしたちにできることは
毎日少しづつ何かを続けること
人生はシンプルである
もしいまこの瞬間に
人生が終わったとしても
すべて完結したと思えるか
人生最大のウソとは?
人生最大のウソとは、いまここを生きないこと
過去と未来に光を当て
それぞれぼんやりと見えた気になってしまうこと
我々に必要なのは
いまここ
そこに強烈なスポットライトを当てて
自分の人生を真剣に生き切ること!
そもそも「人生の意味」などない!
それは自分が自分に与えるものである
「わたしのまわりは仲間でありわたしの人生はすばらしい!」
と思えるかどうか
自分一人の力は計り知れないほど大きく
わたしが変われば世界は変わる!
わたし以外のだれも世界を変えることはできない!
周りの人が協力的であるかどうかは問題ではない
大切なことは
いまここ
が強烈に輝いているかどうか!!
世界はシンプルであり人生もまた同じである
おわり
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